上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2011年



4時間遅れで





ウズベキスタンから~







あけましてっ
画像 022


あっ失礼…










おめでとうっぬおっ
画像 025


あーん、ちょっと近かった










おめでとうございまーす



画像 023


ちょっとはみでちゃった・・・足ながくてぇぇ



うさぎ年ばんざい






日本にいるみなさま

世界中各国にいるみなさま

ウズベキスタンにいるみなさま


今年もよろしくおねがいします




ウズベキスタンで迎える初めての正月。
年末年始の模様は後日レポートします。

スポンサーサイト
ウズベキスタンはややイスラム教。
なのでクリスマスはない。

しかし、ツリーやサンタクロースはいる。
そして、クリスマス風の飾り付けが12月中旬くらいからされる。
このお祝いは、新年のお祝いとしてされるので、かざりつけも1月6日くらいまで続くらしい…
日本では12月25日を過ぎると、正月っぽい飾りに変わるのが普通だったので、
いつまでもクリスマスな感じのウズベキスタンでは、年末と言う気が全くしなかった。

そんな年末。
ウルゲンチで一番大きな公園で祭りをやっていた。
PC280184.jpg
いつもダマス(乗り合いタクシー)で通る道なので、なにやらやってんなーっていうのは知っていた。
一人では行かなかっただろうけど、同期クラくんのカウンターパートが一緒に行こうと誘ってくれ、
仕事終わりに合流してみた。

子供は冬休み。ウルゲンチにこんなに人がいたのかーというくらいの人ごみ。
ちなみに31日はもっと多いそう。
真ん中に大きなツリーがたっている。
ツリーはウズベク語でアルチャ。この祭りには『アルチャに行く』と言っている。


PC280186.jpg
そして、どこかで見たことのあるニセキャラクター達がうようよ。
でもこっちの人は、これが本物だと思っているから、大人気。

ちなみにサンタクロースもいる。
サンタクロースは『コルボボ』と言う。直訳すると『雪のおじいさん』
サンタクロースはトナカイと一緒ではない。
きれいな女の子と一緒にいるのが普通らしい。

PC280194.jpg
ツリーの周りを出店らしきものが囲っていた。
売っているものは、家の近くにある商店と同じ。
ポップコーンや綿菓子はあったが、
日本の祭りのようなちょっと非現実的なうきうきする感じはなかった。

毎日夜中の12時までやっているらしい。
めったに撮れない写真を撮って、
大きなアスレチックで遊んで(この祭りの時は開放されてた)
お菓子をいっぱい食べて…
ちょっと夜更かしして。
大人も子供もめちゃめちゃはしゃいでいて、
こんなちっちゃい祭だけど、こっちの人には年に数回の楽しみのひとつなんだなーと。

しょぼいっ!って思ってしまった自分は不幸だと思った。
楽しさや面白さを感じる閾値が知らず知らずに上がってしまってる。
日本のディズニーランドも毎日のように通ったら面白くなくなるんだろうか…

とはいえ…
ニセキャラの中途半端さや、ウズ人がめちゃはしゃいでるとことか見て、自然と笑いもこぼれる。
寒かったけど、一人じゃないことだけで楽しかった。
28日の話。

29日はマーキーとモモちゃんがサンタクロースになって突然たずねてきた。
いつもお世話になってるから…と水5Lのボトルを2本とお菓子をくれた。
お世話なんてしてないけど、水はホントうれしかった。重いから。
うちでちょっとお茶をして。
一緒にご飯食べたかったけど、彼らは外食するというのでバイバイした。
最近食欲がないので、家で一人でサラダを食べる。

この後も31日までは仕事。
年越しは、同期のメンズはそれぞれウズ人の家で過ごすのでみんな別々。
私はというと…
1週間前にドクターに例のアルチャ(祭り)に行こうと誘われてたけど、どうも彼は夜勤なのではないかと。
早々に諦め、ウズ人の適当さに若干がっかりしていた。

そして前日に看護師さんに家のパーティーに誘われて、年越しは一人じゃないかも~って思ってたけど…
当日になって、忙しかったのもあり顔をあまり合わせることもなく、彼女はそそくさと帰ってしまった。
うーん…他のボランティアの話を聞いたりして想像するに。
ウズベキスタンはやっぱり男尊女卑な文化が残ってる。特に田舎は。
父親なり夫なり、そして親戚なりが必ずいて、彼女自身は一家の主とは程遠い存在だと思われる。
というわけで、一番仲がいいというわけではない同僚で、しかも外国人で、女で…
そんな新年のお祝いの場に招待するとなると、いい顔をされなかったのではないか。

一言言ってくれれば全然納得するのになぁと。避けるように帰られたことに若干傷つき。

家は相変わらず寒いし、近所はめずらしく静かで(みんなアルチャに行ってるんだろう)
女一人で夜出歩くわけにもいかず。見るテレビもない。
そして、食欲が全くなくてご飯を作る気にもならず。

うわっ、マジ一人さみしい!
と、毛布かぶってがたがた震えながら、早く時間がたたないかと願った。
そんな大晦日だった。
チーン


極めつけに
年が明けたのを確認して寝ようとすると、
花火と爆竹の音。
そして酔っ払いやハイテンションな若者の奇声。
突然騒がしくなり、寝れないよね…
チーン


今回はさすがに
ぼらでぃ
やふし
な気分にはなれなかった。
1月1日は、この町に誰も住んでいないんじゃないかというくらいの静かな朝だった。

とはいっても目は覚めてしまったので、朝早くから掃除や洗濯をして過ごす。
仕事は1月1日だけ休みだけど、今年は土日と重なっているため祝日という気はしない。
でもバザールはやってないとのこと。
さて、今日1日どうするかなぁ・・・
と思っていると同期クラから電話。

オイベック(彼のカウンターパート)の父ちゃんが誕生日で
そのお祝いのパーティーにぜひハムシーラ(看護師)も来てって言ってるんだけど
一緒に行かない??


と。

おぉ・・・元旦に誕生日か。
ウズベク人のパーティーについては恐ろしい話をいくつか聞いているので一瞬躊躇したが、
今日も一人で過ごすのはさすがにどうかと思ったので、行くことに。
こちらの誕生日パーティーは、本人が客を招待してもてなす形式なので
お土産もいらない。

16時に集合して、ダマス(乗り合いタクシー)にのり30分ほど。
思ったより田舎。

少し歩いて到着したのは、かなり大きな家。
といっても、こちらでは普通なんだけど。
その大きな家を見て、やっぱり規模の大きいパーティーなんだと察し
少し逃げ腰に。
なんでそんなに不安なのかというのは、後述から想像してください

ご両親や、ご兄弟、手伝いに来ている親戚の女性の方に挨拶をして、
最初に通された部屋
P1010220.jpg
すでに軽食が用意してあり、この後も次々料理が運ばれてくる。
お客は部屋に通されたらこれらを飲み食いして待つのである。
パーティーの始まりはない。
それぞれが好きな時間に来て、飲み食いし、祝いの言葉を述べ
満足したら、好きな時間に帰るのだ。

そうやって親戚の男性がばらばらと来る。
一人来るたびに洗礼を受ける。

中央アジアの洗礼・・・それはウォッカ

忘れてはなかったけど、甘く見てた。
飲めませんよーって言っても絶対無駄。
なぜなら彼らは誰かをつぶすために飲んでいるから。
ウォッカて、最高アルコール96度のまであるらしいよ。
死んじゃうね。


目の前の器に容赦なく注がれ、誰かが乾杯の言葉を述べて一気呑み。
これがルール。
呑む前にお互いの様子を伺いながら精神統一をし、飲み乾した後は渋い顔でコーラを飲む。
みんなウォッカ、ホントに好きなの?
と聞きたい。

アルコール飲めませんといいつつ、ウォッカだけは断れなくて
毎回呑まされる。
なんの圧力か…
今回もここで2杯と半分。(1回分ちびちび飲んだが乾杯5回くらい?)
乾杯の言葉も述べた。ウズ語で。

結構がんばったよ、うちら。
もう無理じゃない?

クラも必死に断ってるけど断りきれてないし。
自分は、顔真っ赤でめちゃ熱いし、最近まともに食事をしていない
胃に大ダメージ
これ以上限界~なタイミングで
神の言葉が…

いや、オイベックが
ここからは、hoshinotoriは女の人の部屋に行きなさい
と。

そう、こういうパーティーは普通、男女別の部屋でやるのです。

助かった…

クラよ、つぶれないでくれ…
と願いつつ。
今回は『ウォッカで意識を失うクラ』と『アルコールにめっきり弱い自分』だけ。
2人ともつぶれたら…という最悪の事態を恐れつつ、別室へ。

親戚や近所の人がばらばらと来る。
男性と別れて、女性や子供は私のいる部屋へ。
もちろん全員知らない人ばかり。

今日誕生日のお父さんの息子のオイベックと一緒に働いてるクラっていう日本人のボランティアの、あ、今あっちの部屋で飲んでる男の子なんですけど、彼の友達で、私も日本からボランティアとして来てて看護師やってます
なんて、ジュゲムなみに長ったらしい自己紹介を重ねたのはホント。

基本この部屋にいるのは
『おもてなし準備をしている親族の女性』 
       か
『酔っ払った夫を連れて帰るためについてきたおくさん』
なので、若干の疲労感がただよい・・・
私がいるからではなく、無言な時間の多い空間だった。
同年代の女の子がいろいろと質問をしてくれ、なんとか雰囲気を取り繕った感じ。
P1010228.jpg
でもみんないい人だった。
ウォッカはさすがに断ったけど、お茶でも乾杯の言葉を要求され、
前の部屋で一通り食事をし終わってたのに、また最初から食事を勧められ。
しんどかったのはしんどかったけど
つながりのよく分からん外国人なのに、最高齢のおばあちゃんの
次のポジションでおもてなしをしていただいた。



途中、酔っ払った男性が女性部屋に乱入。
おばあちゃんにひとしきりハグをしたあと、あろうことか私に絡んできた。
日本語での乾杯を強要され、カンパイって言うんだよと教えると
何が面白いのか…
なぜか超テンションがあがってしまったそのおっさんに




激しくキスをされてしまった



なんの因果か、そのときは女子供が全員集まっている時で(写真の倍以上)
みんな私の代わりにキャーとかイヤーとか言ってくれるが、
誰も助けてくれず

その後は目が合うたびにくすくす笑われる始末



ブルーな気持ちで様子を見に行くと
クラ死んでるし
P1010226.jpg
優しいオイベックは
大丈夫だよ、クラいつもこうだから。
今日は泊まってもいいよ
hoshinotoriはお母さんと一緒に寝ればいいよ

と言ってくれた。
・・・

いやいやいや… なんとしてでも帰ります!



その後、なんとか息を吹き返したクラは再び参戦し
自分は自分で、吐きそうになりながらオリーン攻撃をかわし

いつもマーキーやモモちゃんが苦しんでいるという
ウズパーティーをなんとか攻略した。


とはいえ
最後はお土産もいただき、タクシーのお金まで払ってくれ
そんなおもてなし精神に脱帽
オイベック、ご家族のみなさん、ほんとうにありがとう


帰ってから死にかけたんだけどね





ところで、『オリーン』とは直訳すると『もらって』。
どんどん食べて、飲んで、という意味。
いただきますをする前から オリーンオリーン
どんなにお腹がいっぱいでも オリーンオリーン
もう無理ですといえば そうか、じゃあオリーンオリーン
ウズのボランティアはたいていオリーンが苦手。
私はといえば、ホームステイの時からオリーン恐怖症
でも、おもてなし文化というのは本当にすごい。
2011.01.08 あれから1年
それぞれの人生に、節目(ふしめ)といわれる日があるはずだ。
誕生、死であったり、入学、卒業、結婚など何らかの行事であったり
何か行動を起こした日だったり。
人と共通なものもあれば、個人的なものもある。
辞書的に言っても、物事の区切りというやつ。
記憶に残っている日というのは全部節目な気がする。

何が言いたいかというと・・・
自分にとって、鮮明に記憶に残っている日というのがいくつかあるが、
その中でも強烈だった1日が去年の今日だった。


1年前の1月8日。
看護師人生を始めた職場である救命センターを退職した。

医療職者など専門職から見れば、就職場所が変わるのは特別なことでもないし
長く勤めたわけでもない。
もちろん今、海外協力隊として異国で働いていることのほうが自分の中では
よっぽど特別。

それでもやはり節目は節目だった。


救命センターで働くという憧れや、
今後のキャリアアップを想定して
自分自身のためという意志があって志望していた。
単に患者さんのためやお金のためだけなら救命センターじゃなくても働ける。
そう思ってあえて荒波に乗った。

合格発表の遅い職場だったが、他の内定を蹴って待っていた。
倍率は低くはなかった。
大学4年。卒論や実習のさなか。
余裕をかませるほど大人じゃない。

そんな極限の精神状態でもらった合格通知。
正直、今後の人生を左右する点で
協力隊の合格通知をもらった時より興奮した。

だから入職した時は、長く勤めたいと思っていた。
しんどいことのほうが多かったけど、
それは想定していたし
もしこれを乗り越えた時に
輝かしい未来が待っているのではないかと。

そのときも
自分の人生に意味を見出そうとしていた。
ただなんとなく毎日過ごしていくことが苦痛だった。
ただ生きているだけ
というのは自分の中でありえなかった。
最低限、人に迷惑をかけない。
できれば誰かの役に立つ。
欲を言えば誰かに必要とされたい。


救命センターでの仕事は毎日刺激がありすぎた。
それに加えて
本当にたくさん勉強した。
知らないことで患者さんに苦痛を与えてしまうのも嫌だったし
知っていれば患者さんに最良のケアを提供できると信じていたから。
そうやって努力をしていたからこその意地やプライドがあった。
まだまだ努力が足りないことに気づいて落ち込んだりもした。
それで私生活にも影響が多々あった。

というわけで、完全な仕事人間だったらしい。


気づいた時には疲れていた。


日々押し寄せてくる疑問と不安。

自分はいったいどこに向かっているんだ?
何がしたいんだ?
この病院で何ができるんだ?


元の職場の人もこのブログを読んでいるため言葉を選ぶが・・・

正直に言うと
協力隊の試験を受ける前に
退職を決めていた。

受からなかったらどうしていたか分からない。

退職することでマンパワーが低下し、心善く思われないはず。
それでなくとも、ひどい人数の職場になっていたから。
4年間お疲れさまという言葉に自分は重荷を感じていただろう。

協力隊が事実になったから
目標があるから退職せざるを得ない
という印象を周りに与えた。
がんばってと応援してもらえるようになった。

それにも後ろめたさを感じていた。


自分には目標があったんだ
そのためにがんばってたんだ

と自信を持っていえない。


自分は元々、深く物事を考えすぎる傾向にあるが
管理職に退職宣言をした時も
協力隊の試験を受けた時も
かなり衝動的だった。

疲れてしまった自分を正当化したいのと
目標を持っていたのは確かだけど
こんなスムーズに道が開けると思っていなかったための動揺。
行き当たりばったりに慣れていないくせに
この大事な時に
行き当たりばったりだった。


退職という事実に自分自身が納得したのは
宣言した時でなく
退職してからなのである。

行き当たりばったりでも
結果オーライじゃん
と、晴れ晴れした気持ちになったのは
やっと今なのだ。
1年たったやっと今。


だから…
入職日より退職日のほうが記憶に残っている。

いや、それだけではない。

記憶に残るだけの壮絶な日だった。


続きはまた。
1年前の記憶はまだ鮮明。
あぁ去年の今頃は…とおぼろげに思い出しながら寝たらひどい夢を見た。
起きたときに体が硬直していた。

1年前・・・
年末から退職までの10日間、休みは1日だけ。
ほぼ夜勤。全部リーダーという勤務だった。
もともと退職は年内の予定だったので、12月末に家をひきはらい
同期や先輩の家、病院の仮眠室で寝泊りする2週間だった。

うちの病院は初療室(2床)とICU(8床)と病棟(22床)の3つだけ。
日勤は初療に交替で行くこともあったが、自分は病棟に所属していた。

退職日は深夜勤だった。
前日は日勤。
医療職者以外は想像つかないだろうけど、
日勤が定時に終われば、8時間後、夜中に出勤し夜勤が始まる
という勤務である。
もちろん定時に終わるわけもなく
日勤は20時前に終わったと思う。
病院の仮眠室では救急車の音が何度も聞こえ、
また、退職が目前だったため
一睡もできないまま夜勤が始まった。

ほぼ満床。個室には植物状態のいつ亡くなってもおかしくない患者さんもいた。
8床ある重症部屋は1床空いているだけ。
自分がリーダー。
メンバーは1つ下の後輩。そして病院で一番手のかかっていた新人。
この新人、ほぼ1年たとうとしているのに、べったり行動監視が必要な状態。
そのため、重症部屋3人を受け持たせ
それ以外の患者を自分と1つ下の後輩で分担した。
全部で22床といっても、ほとんど重症者。

リーダーは全患者の情報を知っておく必要がある。
それからいろんな調整。
夜勤でも仕事量は半端ない。
一緒の勤務は全て後輩。3人だけ。不安じゃないわけはない。


それでも最初は穏やかに始まった。
自分は委員会や係の仕事など残務も済ませながら
後輩2人を交代で休憩に行かせ、時刻は3時。
ちょうど初療室に緊急患者が来ていた。
各詰め所のモニターで様子が見れる。
意識のない患者が多いので、夜中でも2時間毎に寝返りをうたせてあげなければならない。
うちの病棟は奇数時間だった。
これが終わったら自分の休憩の番。
3人しかいないので、流れ作業で端から順番に回っていく。

しかしその前に、ふと気になった。
新人が受け持っている患者で一人病状が不安定だった人がいる。
大丈夫かな…
他の部屋に入ってしまったら様子が分からなくなるので、先に部屋に見に行った。

すると…
呼吸状態が怪しい…

これはただの直感だった。

当直医も管理Nsも緊急患者の処置をしている。
モニターで様子を見ながら、一報だけいれておこうと管理Nsに電話をした。
そのときは詰め所で、患者の心臓や呼吸状態がわかるモニターも見ながら。

少し気になるという程度だったので、
忙しいところごめんなさい、という気分だった。
しかし、電話がつながってものの数秒で、その患者のモニターが心停止に近い状況になった!
あ、なんか無理ですっ!と叫んで電話を切って(切ったかどうか覚えてないが)
病室に駆け込んだ。
呼吸停止している!!

あー、もうやばいやばいやばいー…って思いながら
緊急処置と蘇生の準備をする。
電気つけて!ベットの柵下ろして!
そんなこともひとつひとつ指示しなきゃ何もできない新人。
自分はとにかく、この患者を死なせてはならない!
という気持ちしかない。
急変は何度か経験しているけど、当直医や先輩がいないのは初めて。
しかも、足手まといな新人。手に負えない(泣)
そのとき自分を突き動かせていたのは、
なんだったのか。
その間どのくらいの時間だったか分からない。
でも、意志と関係なく口と体が勝手に動いていた。

電話での自分の様子に異変を感じてか、
管理Nsと当直医が直後に駆けつけてきてくれた。

どのくらいの緊張感だったかというと、
悪い知らせを聞いた時に、胸がどくんとなる感じ。
それがこの時までずっと続いていた。

医師がくると、薬品投与して、緊急で気管に管を入れ、呼吸器を装着できる。
その介助も、受け持ちである新人は何もできなかったので、全て自分がした。
もう一人の後輩は、他の患者を全て看ていてくれた。
焦る気持ちはなくなり、安堵感ももっていたつもりだったが、
処置の介助をする手が、ありえないくらい震えた。

このように状態が急変すると、看護師の人数の多いICUに移動させる必要もある。
といっても、それにも様々な準備や手続きがあって簡単ではない。
そして、緊急で来ていた患者さんの入院もある。
加えて、臨終間際の患者さんもいる。
もちろん他にたくさんの患者さんがいる。
患者さんが起床してくる時間も近づき、これから忙しくなる時間。

新人には新しい業務もあり、手取り足取り説明し、一緒にこなしていかなければならない。
自分がリーダーだから全部調整しなければならない。
何が大変かというと、この異常な事態があっても
決まっている業務の中で、
できることと、できなくてもしかたないことを区別し
最低限必要なことだけ安全に実行していく行動力と判断力がリーダーに求められる。
この、責任感と緊張感と仕事量の多さ…
重圧に耐えられず
もう全て投げ出して倒れてしまいたい衝動に何度駆られたか…

でも、
無理です!できません!
とは言えないのだ。

休憩をとっていなかったのもあり脱水ぎみだったため、
自分を奮いたたせるべく
休憩室に駆け込み、ローソンで買ってた1Lのパックのスポーツドリンクを
10秒で一気飲みした。
飲み干して、ゴミ箱に投げ捨てた紙パックの残像まで覚えている。

脅威のスタミナと集中力が、あの時はあった。

その後、後輩と一緒に新人の尻をたたきながら業務をこなした。
それでも日勤との交替の時間になっても3人とも仕事が終わらない。

引継ぎのためにすべき記録や点検だけ先におわらし
リーダー申し送りの時は、魂が抜けていた。

その後なんとか業務を終わらせて、
自分の記録にとりかかれたのは昼前。


というのが、普通にあるのが救命センター。

だけど、なぜこんなに鮮明に覚えているかというと
よりによって退職の日だったから!

ぼろぼろ抜け殻みたいな状態で
誰かに促され、
4年間ありがとうございましたと挨拶をし、花束をもらった。

みんな気の毒そうに見ていた。
最後までこんな忙しい勤務なんて、hoshinotoriらしいねと苦笑いで言われた。

パズルのピースが合うかのように
歯車が合うかのように
少しずつ形作られた1日。
壮絶だった。

後から笑い話として、当時の同期や先輩とこの日の話を何度かした。
でも忙しかったなぁっていう記憶だけじゃない。

あの日が救命センターの看護師としての総集編だったのだ。

あの1日で
目の前の現象に対し
行動したこと
感じたこと
反省したこと。
それは、無意識のうちに自分の価値観=看護観に基づいたものだった。

なにかに突き動かされてと表現したが
いつも経験や知識だけで動けるわけじゃない。

もっと早く発見できたかもしれない。
もっと何かできたかもしれない。
あの時こうすればよかったかもしれない。
そんな後悔は、いやでも押し寄せてくる。
もし目の前で亡くなってしまったらなおさらそう思う。

人はいつか死ぬ時は死ぬ。
自分せいじゃないことが多いけど、
自分のせいになりかねないことが多いのも
医療職者の現実である。

その重圧に耐えられなくて去っていく人も多い。

でも重圧を感じるということは
それだけ真剣に向き合おうとしている証拠だとも思う。

経験年数とか関係なく
対人間、対命という仕事に対する姿勢。
医療職なら誰でも一緒だと思っていた。

しかし、あの日に知ったのは
何かをしなければと思う気持ちと
その気持ちを思い起こさせる理由
そして全てが終わった時の気持ちが
その新人とは違っていたということ。

半年ほどずっと指導してきた経験と、新人の態度から
実は、優しく指導なんてとてもできない心境だった。
ぶっちゃけ、最後なのにこの子と一緒の勤務かとうんざりもしていた。
でも初めての急変体験だろうし、新人にもショックな出来事だろうなとは思っていた。
一人間として、一看護師として新人に伝えたいことがたくさんあった。
叱り飛ばせば早いけど、この職場で最後のこの日にそこにエネルギーは費やしたくなかった。
だから、それはもう辛抱強く教えたつもり。

だけど話せば話すほど
その新人の、看護師としての感覚に違和感を感じた。

今自分は発展途上国の救命センターにいる。
最初に思ったのは
あの新人とここの看護師が似ている、ということ。
あの子の名誉のために限局しては言わないが、
マンツーマンで指導している間、
相手の気持ちになって考え行動してほしい
と常々思っていた。
看護師はプロだ。
少なくとも患者さんに苦痛を与えず、苦痛を取り除き
安心を与える義務がある。
それに関して、少しも意識が及ばない子だったのだ。
それに対し、どのように指導していいか最後まで分からなかった。

あの新人は自分が退職した2ヵ月後に突如辞めたらしい。

それを聞いたあとこの国に来た。

少なくとも自分は何事にも真剣に向き合おうとしている。
あの新人とも向き合おうとした。
それをするりとかわされている気分だった。
辞めたと聞いて、もっと早く辞めててくれればよかったのに
という気持ちとともに無力感も抱いた。
そして、今も看護師たちに対しそういう気分になることが多々ある。

でもあれから1年たって
ウズベキスタンで半年たって
この異国の看護師や
違う病院で経験を積んできた看護師の先輩達
そして、医療職以外のボランティアたちと
深く関わるようになり
頭でっかちだった自分に気づいた。

自分の価値観が正しいか間違っているかは深く掘り下げない。
それより
考え
行動を起こし
感想をもつ
というものが、無意識のうちに自分の価値観に基づいている
ということを意識するようになった。

自分の価値観を押し付けないようにして
誰かに指導するというのはとても難しい。

でももう一度、自分の価値観にとらわれすぎていないかと
足元を見る必要があるのかなと感じるようになった。


この先どうするのかってこと、まだ考えてないけど
頭でっかちじゃなくなればもっとすっきり前が見える気がする
と、そう思った。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。